2009年3月8日日曜日

私にとっての神 その7

私は、キリスト教の強さの一つが、奴隷の宗教であった事、もう一つは聖書という言葉による経典がある事だと考えている。

言葉による経典という意味では、仏教も、儒教も差がないハズだが、キリスト教にはその事を明示的に示す、有名なヨハネの福音書(Gospel according to John)というものがある。冒頭の「はじめに言葉ありき、言葉は神とともにあり、言葉は神なり」(In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.)は、旧約聖書から引き継がれた聖書作者の考えをはっきりと示している。

言葉というものを記号論理の表現手段として純粋化(厳密化)していけば、数学にいたるだろう。神学も数学になるべきだと私は思っている。 そう、神を定義する事が可能かどうかはわからないが、少なくとも神を表現するのに「万能」「全能」「超越者」だのといった定義のない言葉を使うべきではない。

その意味で、神学者は、まず数学、少なくとも論理学をもっと勉強しなければならない。実際、大学程度の数学をかじったものなら、「超関数」「リーマン球における無限遠点」など神のいわゆる「超越性」連想させる概念が気になるはずである。 

あるいは、神の存在など、私たちが抱えている問題について、ある種の「解の存在定理」のように、存在すると仮定して計算進めて(つまり神が存在すると仮定して行動して)、出てきたものが、解であれば、(神自身の存在は証明できなくても、)それでよいのかもしれない。 直接の存在は証明できないが、言葉として我々が生きていくうえで、実際に役に立てばそれでよいとだすれば、その働き方はまさに言葉と同じである。

近現代の数学を知らない聖書作者のヨハネが、すでにその事に気づいていて、聖書が歴史的事実かどうかを気にするなとあえて宣言した様に思われる。

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