2009年1月26日月曜日

私にとっての神-3

私にとっての神の土台は、実はキリスト教的な神と、少年期に父から受けた道徳的教育から得た自分なりの結論の2つである。

キリスト教的神の方は、カール・ヒルティと遠藤周作が私のキリスト教に対する考え方の元になっている。

まずカール・ヒルティによれば、神の存在は、人間には証明できない(証明できたとすれば、人間を超越しているという神の属性と矛盾する)。

また、遠藤周作によれば、キリストが伝えた神の愛は、戒律や罪に対する罰といった父性的なものでなく、原罪(あるいは自らの罪)に苦しめられる人間を無条件に救う母性的な愛であると。

私が少年期に受けた道徳教育というのは、廣池千九郎博士が創始されたモラロジーである。 一言でいえば、道徳とは、基本的に他者を愛し、利己主義を捨て、他者に奉仕する事に徹する事で幸福にいたるという事ある。

しかし、その小冊子、ニューモラルのある号に鋭くも指摘されていたように、自己の幸せのために他者に奉仕するのであれば、これは偽善である。 実は、単純な道徳・倫理というのは、子供にもわかるような大きな矛盾を含んでいるのである。  だからこそ少し純粋な人間は、皆、大人になるために、思春期の反抗と不安を乗り越えなければいけないのだと思う。

優等生であった自分は、純粋さにかけていたのか、両親の愛があまりにも深かったゆえか、思春期をこれらの矛盾に立ち向う事もなく過ごしはしたが、子供のころ、引っかかっていたこの点を心のどこかで、考え続けていたのであろう、未熟ながらも人生の経験を経て、(30歳前後だったと思うが)いつしか簡単な答えが自然に出ていた。

自他共に幸せになりうる行動、それが善(すなわち本当の道徳)であると。

しかし、現実世界で本当にそのような行動が常に取れるだろうか?本当にそのような行動を常に見つけられるだろうか?

そのとき、自然に、神が必要であると「悟った」のである。 ここから先は、信じるしかないのだと。

実は、この事は、気がついてみれば、多くの人がすでに言われている。
「自他一如」という古くからある言葉が、まさにそれであるし、私が青年期にかじった柔道の創始者、加納治五郎師も「自他共栄」といわれている。近くは、妻が傾倒している上廣榮治師も「我もひともの仕合せ」と表現されている。

しかし、理想とすべき生き方の方向が見つかったのなら、その上に「神」などというものは、必要ないのではないか? 信じると言っても、自分自身を信じるだけではないのか?と? 

あるいは、神と呼ぼうが、(最高)善と呼ぼうが、単に呼び方が違うだけではないか?と。

実は、これをもう少し掘り下げて考えようというのが、このブログの目的でもある。 答えがあるのか、ないのか、あるいは無意味な「神学論争的」問いなのか?

2009年1月24日土曜日

我流人相学-その3


小鼻が張ってしかも鼻孔が前を向いている人は、攻撃的自己主張型の人が多いと思います。(右図のような感じ)

私の周辺には、2名、テレビで1人見ましたが、有名人では、本気で探していないので、(いても私生活を確認のしようがないため)実例を知りません。
この人はそういう人に違いないという有名人がいたらまた書きます。

私にとっての神-2

一口にいうと、人の生き方を考える上で倫理や道徳というものがありますが、現実世界の不条理さや過酷さに本当に対処するには、これだけでは不十分だろうという事です。 

実際にはその人の境遇によるのでしょうが、この命は一度きりでいつか必ず死ぬという現実や、いくら進化しても他の生命を食物として摂取し、あるいはエネルギーを奪い合う生存競争の中で生きているという現実を目の前にしたときに、目の前の現実だけを元に作り上げられたうわべの倫理や道徳にどれほどの価値があるのか?それに従わない事がそんなに悪いことか? たとえば、極端な話、牛や豚を殺して食べているのに人を殺すのがそんなに悪いことか? 現に正義の名のもとに戦争で多くの人が殺されている。 このような不可思議な世界に生きるには、単なる、倫理や道徳といった一見科学的な理屈を超えた、深い生きる指針を求めるのは、自然という以外にないように思うのです。

私の高校時代の物理の先生が、「科学は、物質的な真理を求める学問だが、人文系の学問や宗教というのは、人間の生き方を考える学問であって、扱う対象が異なる。 したがってアプローチが異なるのは当然で、人文系の学問や宗教に非科学的という非難はあたらない。」という意味の事を言われました。

そのときは、言葉として、「確かにそうだな」と思いましたが、まだまだ子供で、自分自身の人生に真正面から向かっていたわけではなく、本当の意味でわかっていた訳では無いように思います。

50歳の節目を越えた今、自分の人生を振り返りながら、もう一度考えてみたいと思っています。

私にとっての神-1

私は、妻へのプロポーズの時に、「僕は神様を信じている」と言いました。 ちょっと普通のプロポーズとは違うかもしれませんが、妻は覚えていないのだろうと思います。 

なぜなら、神様とは無縁な別の宗教(正確には宗教法人ではないが)に傾倒しているからです。 あるいは、きわめて日本人風に神様はどれでも同じと思っているのかも知れません。

結婚後21年になりますが、実を言うと私の信じている神様について、妻に詳しく話したことはありません。 子供たちにもです。 別のところでホームページに「神とはなにか」というのを1995年に書いていますが、読んだ人からメールが来たためしはありません。

妻の傾倒している教えに付き合って「会友」というものになって、それなりに活動したこともあります。 その会から、ずいぶん学んだこともありますが、しかし、何か違う。 何が違うのか、また、その会から学んだことも私自身の中で整理しておきたいと思い、ここに書き始めました。

神に選ばれなかった夢の話を前にちょっとここに書きました。多分自分の信じているハズの神を見失ってしまったのだと思います。 それをもう一度探そうというのです。

素人の神学など読む人には時間つぶしにもならないかもしれませんが、私はマジで書いています。
何回で終わるのか、終わらないのか、見当もつきませんが。

2009年1月20日火曜日

金満女性の人相(勘違い)

人相ネタが続いたので、もう一件ついでに、いってみよう。

私の人相研究ははまったくの我流で、自分の経験から帰納的に法則を見出そうとしているだけで、人相が見れるというようなものではない。 2件ほどブログに書いたが、自信があるのはあともう2件、計4件だけである。今回書くのは、そのあとの2件とは別の、新しい人相を発見したと勘違いした、いわば笑い話である。

私の知人親戚で、金回りの良い、中堅企業社長婦人、元大企業会長婦人、元銀行支店長で有名食品会社の子会社社長婦人などを見ていて気がついたのだが、みなブルドックのように頬の肉付きが良いのである。 これは、金持ちの相に違いない、5つ目の人相法則を発見した、と思った。 例によってサンプリングが少ないので、他の例はないかと気にしていた。 一つ目は、塩野七生の「ローマ人の物語」に出てきた皇帝コンスタンティヌスである。 皇帝であるから金満家に違いない。 法則にあっている。
とここまでは、良かったのだが、あるとき鏡を見ておどろいた。 私自身もかなり頬の肉付きがよく、我流人相学の金満家の相である。 反例が出てきてしまった!! ここまできて、静かに考えてアッときがついた。 頬の肉付きが良いというのは、金満家の相というよりは、食生活を反映しているにすぎないと。 つまり太りすぎなのである。 たしかに相関はあるだろうが、その人の特別な性格や行動を顕わす人相とはいえない。というオチがついたのである。自分ながら苦笑してしまった。

不倫女性の人相

名人の人相が目にでるという話を書いたが、実は私流の人相学で確信しているもうひとつの目に出る人相がある。 それは不倫女性の目である。 不倫していても人相に出ない人もあるようなので、人相で全部の不倫女性がわかるというわけではないが、確かにある種の目をしている人は、不倫の相といえると確信している。 私の昔の知人にひとりと、週刊誌に不倫を告白していた学生が典型的な目をしていて気がついた。 不倫といってもかなり依存的なべったりした不倫の場合にでるようだ。 サンプリングが少ないが、かなり自信がある。 名人の目と同じで、誰か有名人の目を例示できればよいのだが、ある時期からの・・・美子がこの目になっている。 自信がないので伏字にした。 もう少しはっきりでている有名人があればよいのだが。

スリの名人に出会った(と信じている)話

30年ほども前になるだろうか、年末に家の商売を手伝っているときにスリの名人に出会ったことがある。 実を言うと確証はないのだが、状況とある種の感覚からそうと信じている。

私の父は、大阪は難波(通称「みなみ」とよばれる大阪の繁華街)の南にある木津地方卸売市場という所で、魚の仲買商をやっていた。

魚といっても塩干魚つまり、塩鮭や鰯の丸干しのような鮮魚に保存用の加工を施したものが中心的な商品であった。

年末になると、数の子(主に塩数の子)や棒鱈(鱈の開いた身の硬い干物)、かまぼこといった正月用品を扱うため、戦場のような忙しさとなる。

そのなかに常連のお客さんで、難波でチェーンの蕎麦屋をやっている大将がいた。

年末の超混雑しているある日のこと、その大将が、その日の仕入れと支払いを終え、帰ろうと店の外 へむかって移動し始め、何かを思い出しのかまた店の中へ向かって、ズボンのポケットにいれた財布をさぐりながら、さわぎ始めた。 

聞くと今数秒前にズボンのポケットにしまった財布がないという、周囲の数人に盛んにアピールするが、超混雑状態のためほとんどの人が知らん顔している。

しかし年配の夫婦連れの客がいて、この男の方が、確かに財布をしまうところを見たとか、誰かが向こうのほうへ行ったとか、饒舌に相手をしてくれた。 

やがて、大将は、周辺を何度探してもみつからないので、 どうもスリに会ったようだとあきらめて、店内にいる私や家人に出てきたら知らせてくれるよにというような事を言い置いてさっていった。 その夫婦連れも雑踏にまぎれていなくなった。

しかし、あとからよく考えてみると、混雑しているとはいえ、狭い通路内での数秒間のことであり、どう考えても、その夫婦連れの男が怪しい。 怪しいとは思いながらも、見たわけではないので、うまく問い詰めるだけの知恵と勇気がなかった事を後悔した。 そう思い返すとずいぶん白々しい芝居であった。

怪しいと思ったもうひとつの大きな原因は、その男の目つきが鋭く、誰かの目に似ているのである。 誰かというのは、そのころまだ現役で活躍していた野球の王選手である。

新聞記事に、王選手がどこかのえらい禅僧に、「あんたは名人の目をしている」といわれたという話を書いていたことを思い出した。 あの男は、スリの名人だったに違いないと、確信しているのである。

件の大将の財布は、すぐに現金だけきれいに抜き去って、市場のトイレで発見されたと守衛室から連絡があった。 

これはプロの流儀なのであろうが、気づかれてすぐの白々しい芝居は、まだナイーブな学生の私ですら怪しいと思ったくらいであるから、プロらしいとはいい難い。名人の修練の外の出来事であったのかも知れない。

2009年1月11日日曜日

ゴキブリ食べた!

私の50数年の人生は、今となってはあまり大した事件もなく気がつけば、定年まで数年にせまったサラリーマンというという所でしょうか?

神様に出会った話は数百字が限度のブログでは重たすぎるのでさておくとして、珍しい経験としては、ゴキブリを心ならずも食べたことがあります。

カレーを食べていて、「カリッ」としたアーモンドのような歯ざわりと風味を感じ、「何だ今日のカレーは、アーモンドなんか入れてあるのか」と一瞬思いました。

スプーン上にのこった半分をよく見ると、なんとゴキブリくんではありませんか!!! あわててカレーの残りは捨てましたが、先に口に入れた分は、よく噛んですでに胃の中に!!! 

後から考えると、別に変な味もなかったし、異臭もせずアーモンドとしか思えませんでした。カレーだから当然煮込んであって、黴菌もないでしょうし、ゴキブリ君の残り半分を食べるかどうかは別としても、カレーまで捨てる必要はなかった。

吐き気も催さず、おなかもこわさなったのでした。

神との出会い

最初の投稿
自分で作ったブログに一番最初の投稿をしています。
テストみたいなものです。

さて、私は神を信じていました。
今も信じているとおもうが、自信がありません。
信じていると思っていた時に、私は夢の中で神に会うことができました。

でもいまは、...。

最初で最後かもしれないその出会いのときに、神は私に詫び、
私は選ばれなかっと、教えてくれました。

そのときから、今の私の苦悩は始まったのかもしれません。
エデンの園を追われたアダムのように。