旧約聖書の神が奴隷主である、つまりユダヤ教は奴隷の宗教だ(すなわちキリスト教も)というのは、どうも西洋人には、半ば常識のようである。
たとえば、
http://www.corrupt.org/data/files/friedrich_nietzsche/
"slave religion","religion of slave"で検索すると、読みきれないほどたくさんのヒットがある。
やれ、マックス・ウェーバーだ、シモーヌ・ヴェイユだ、上記のニーチェだと、私自身は名前しか知らないが、高名な思想家、哲学者から、一介の若者の意見のような書き込みまで。
えらい大発見のように感じたが、とんだお笑い種である。これだけヒットがあるという事は、だからどうだはともかく、そういう見方があるという事は、常識のようだ。
この事で思い出したのは、英語力に関する私のお恥ずかしい体験である。
30代の頃、会社の英語の社内検定でAクラスをもらっていた私は、それなりに英会話や英語には自身があるつもりでいたが、社内の上級の英会話のクラスで、米国人の講師から、親子の間で"I love you.”というと思いますか?という質問を受けた。え?と思ったが、自分のそれまでの経験で聴いたことがないので、「いわないと思う」と答えた。
もうお分かりだろうが、答えはyesなのだ。 そう思って洋画を見れば、よくそれに類する場面がある。 この時の授業は、異文化を理解するというテーマであったが、それほどまで、私たちは異文化を理解できていないという事である。
改めて、英米語圏の人々の常識、文化を理解していないのだという事に気づかされた。
検索エンジン様様でもある。
2009年2月24日火曜日
2009年2月23日月曜日
ユダヤ人の一神教 契約と言葉
旧約聖書は、古い契約だという。
奴隷となった民は多かったのに、どうしてユダヤ人だけが、一神教という宗教を発明できたのだろうか?
第一の答えは、彼らが、言葉を記録すべき文字を持っていたからであろう。
逆に言うと、文字という高度のな文明を持っていながら、奴隷となり、さらに生き延びた例が、稀有であったというべきなのかもしれない。
そして彼らの宗教は、契約だという。
これも、研究と思索を要する話だが、一神教には、言葉が、書かれた言葉が必要だといえるのではないだろうか?
戒律も、一方的ではあるが、書かれた言葉による契約なのであろう。
奴隷となった民は多かったのに、どうしてユダヤ人だけが、一神教という宗教を発明できたのだろうか?
第一の答えは、彼らが、言葉を記録すべき文字を持っていたからであろう。
逆に言うと、文字という高度のな文明を持っていながら、奴隷となり、さらに生き延びた例が、稀有であったというべきなのかもしれない。
そして彼らの宗教は、契約だという。
これも、研究と思索を要する話だが、一神教には、言葉が、書かれた言葉が必要だといえるのではないだろうか?
戒律も、一方的ではあるが、書かれた言葉による契約なのであろう。
2009年2月22日日曜日
一神教 試練を生き延びた開放奴隷の心象2
ユダヤ人が発明した一神教が、彼らが昔奴隷であった事の消えぬ刻印であるとかいた。(断っておくが、ユダヤ教や一神教が多神教より劣るとか、価値がないとか言いたいわけではない。 むしろ一神教の強さと弱さを明らかにして、私自身の神とは何か?何であるべきか?との問いに答えを出したいのだ。)
私自身最近、気がついたことなので、もう少し深く掘り下げてみようと、旧約聖書をそういう目で見直してみると、ちょっと考えただけでも納得させられる事が多い。
気がついた順に書くと、

1.アブラハムが息子のイサクを神に捧げよ命じられた事
先祖崇拝のアジア系の神ならあり得ない話だが、奴隷主なら奴隷の子供は家畜の子と同様の財産であり、奴隷から子供を取り上げる事など日常であったであろう。
2.カインとアベルの説話から
この話から、カインは農業の民の祖先、ユダヤの先祖のアベルは遊牧民であったとされる。カインが敵役になっているのは、農業民の方が古く、肥沃な土地は農業の民に占拠され、遊牧民はその奴隷もしくは下級階級とされていたのを、遊牧によって独立して荒野に逃れたということであろう。
3.エデンの園の説話
奴隷には、自分の判断でできる事は極端に限られていたであろう。しかしその反面奴隷主に従う限り命は守られ、知恵と力を自己責任で働かせて、生存競争と対峙する苦しみは緩和されていたであろう。エデンの園から出たという事は、彼らはむしろ、後者の苦しみ、知恵のりんごの木を食べる方を選んだのである。
4.妬む神
昔から人々を旧約聖書の解釈をするときに苦しませてきたようだが、奴隷主なら当然であろう。自分の財産なのだから。(Amazonの書評から、岸田氏の著作にも書いてありそうだが)
ユダヤ人の一神教が、元奴隷の体験が下敷きになっている事は、明らかのように思える。 だからこそ、これほどまでに強く、後の世に影響を与えているのだろう。
私自身最近、気がついたことなので、もう少し深く掘り下げてみようと、旧約聖書をそういう目で見直してみると、ちょっと考えただけでも納得させられる事が多い。
気がついた順に書くと、

1.アブラハムが息子のイサクを神に捧げよ命じられた事
先祖崇拝のアジア系の神ならあり得ない話だが、奴隷主なら奴隷の子供は家畜の子と同様の財産であり、奴隷から子供を取り上げる事など日常であったであろう。
2.カインとアベルの説話から
この話から、カインは農業の民の祖先、ユダヤの先祖のアベルは遊牧民であったとされる。カインが敵役になっているのは、農業民の方が古く、肥沃な土地は農業の民に占拠され、遊牧民はその奴隷もしくは下級階級とされていたのを、遊牧によって独立して荒野に逃れたということであろう。
3.エデンの園の説話
奴隷には、自分の判断でできる事は極端に限られていたであろう。しかしその反面奴隷主に従う限り命は守られ、知恵と力を自己責任で働かせて、生存競争と対峙する苦しみは緩和されていたであろう。エデンの園から出たという事は、彼らはむしろ、後者の苦しみ、知恵のりんごの木を食べる方を選んだのである。
4.妬む神
昔から人々を旧約聖書の解釈をするときに苦しませてきたようだが、奴隷主なら当然であろう。自分の財産なのだから。(Amazonの書評から、岸田氏の著作にも書いてありそうだが)
ユダヤ人の一神教が、元奴隷の体験が下敷きになっている事は、明らかのように思える。 だからこそ、これほどまでに強く、後の世に影響を与えているのだろう。
2009年2月20日金曜日
一神教 試練を生き延びた開放奴隷の心象
安田喜憲教授の一神論について「(環境破壊された砂漠の荒野での)妄想」だとの論評を(http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090203/184786/?P=1)を読んで、何かちょっと違うと感じているとこのブログに少し前に書いた。
自分自身が子供の頃から聖書物語などを読んでいたので、一神教についての弁護的な感情を抱いていたからだが、一神教と多神教の違いはなんだろうかと、この数週間純粋に考え続けていた。
ある事に気がついた。 そうだユダヤ人は、エジプトでもバビロンでも奴隷だったのだ。そして荒野に逃れた。 奴隷だった人間が、荒野に逃れたとき必要になるのは何か?
それは、新しい主人(Master)すなわち神に他ならない。 一神教とはすなわち「奴隷の主人に対する心象の投影」に違いないと、今日、会社からの帰り道を歩き出した時に自然に気がついた。 だからこそ彼らの神は、人間のように嫉妬深いし、戒律にうるさいのだ。
すべてがストンと納得のいく答えが得られた。 そしてローマでどうしてキリスト教はあんなにも急速に広がったのか? それは、ローマが奴隷の上に成り立ち、時代が下るに従って、兵士その他を経た解放奴隷が増えていったからに違いない。 すべてがうまく説明がついてしまう。なんと言う発見だ。どうしてこんな簡単なことに今まで気がつかなったのか?
真理を一つ発見し得たに違いないという自己満足に酔いながら、これも既にそのような説が唱えられているかもしれないと、検索をしてみたら、すぐに出てきた。
精神分析学者の岸田秀が既に書いているという。(書評なので中身を読んでいないが)http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%80%E7%A5%9E%E6%95%99vs%E5%A4%9A%E7%A5%9E%E6%95%99-%E5%B2%B8%E7%94%B0-%E7%A7%80/dp/4403210791
毎度の事ながら、少しがっかりだ。英語でも検索中で、まだ発見できていないが、きっと西洋人の中にも気がついていた人にいるに違いない。
人の同説を探し回るより、だからどうなのかという事をもっと掘り下げて考えてみようと思う。 どうして一神教は、科学を生み出すことができたのか? どうして、その後の社会の発展は、もっぱら一神教によっているのか?
自分自身が子供の頃から聖書物語などを読んでいたので、一神教についての弁護的な感情を抱いていたからだが、一神教と多神教の違いはなんだろうかと、この数週間純粋に考え続けていた。
ある事に気がついた。 そうだユダヤ人は、エジプトでもバビロンでも奴隷だったのだ。そして荒野に逃れた。 奴隷だった人間が、荒野に逃れたとき必要になるのは何か?
それは、新しい主人(Master)すなわち神に他ならない。 一神教とはすなわち「奴隷の主人に対する心象の投影」に違いないと、今日、会社からの帰り道を歩き出した時に自然に気がついた。 だからこそ彼らの神は、人間のように嫉妬深いし、戒律にうるさいのだ。
すべてがストンと納得のいく答えが得られた。 そしてローマでどうしてキリスト教はあんなにも急速に広がったのか? それは、ローマが奴隷の上に成り立ち、時代が下るに従って、兵士その他を経た解放奴隷が増えていったからに違いない。 すべてがうまく説明がついてしまう。なんと言う発見だ。どうしてこんな簡単なことに今まで気がつかなったのか?
真理を一つ発見し得たに違いないという自己満足に酔いながら、これも既にそのような説が唱えられているかもしれないと、検索をしてみたら、すぐに出てきた。
精神分析学者の岸田秀が既に書いているという。(書評なので中身を読んでいないが)http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%80%E7%A5%9E%E6%95%99vs%E5%A4%9A%E7%A5%9E%E6%95%99-%E5%B2%B8%E7%94%B0-%E7%A7%80/dp/4403210791
毎度の事ながら、少しがっかりだ。英語でも検索中で、まだ発見できていないが、きっと西洋人の中にも気がついていた人にいるに違いない。
人の同説を探し回るより、だからどうなのかという事をもっと掘り下げて考えてみようと思う。 どうして一神教は、科学を生み出すことができたのか? どうして、その後の社会の発展は、もっぱら一神教によっているのか?
2009年2月15日日曜日
妄想の真実 その4
死後一週間目における死んだ人の影響力というものが、ある様に思う。マリリンモンローの自殺一週間後にJFKが撃たれた話は書いた。
実は私の個人的な経験としても2,3ある。
一つは、私の父の死後、ちょうど1週間後に、父が夢枕に現れた。
また、妻の母が西宮で亡くなった、ちょうど一週間後に、鎌倉の我が家の玄関先にハクビシンがあらわれてうちの中を覗き込んでいった。
これは幽霊とかではなくて、死後の世界に旅立つ人は、ちょうど1週間後に、この世の心残りを一つ清算できる機会を与えられるに違いないと信じている。
実は私の個人的な経験としても2,3ある。
一つは、私の父の死後、ちょうど1週間後に、父が夢枕に現れた。
また、妻の母が西宮で亡くなった、ちょうど一週間後に、鎌倉の我が家の玄関先にハクビシンがあらわれてうちの中を覗き込んでいった。
これは幽霊とかではなくて、死後の世界に旅立つ人は、ちょうど1週間後に、この世の心残りを一つ清算できる機会を与えられるに違いないと信じている。
2009年2月10日火曜日
私にとっての神-6(神との出会い2)
まばゆい光の塊であると同時に私の現世の父と祖父である神に出会い、お告げを受けたということを書いた。
実を言うと寝ているときの出来事であるが、そのリアルさは決して夢ではなかった。
しかしこのお告げは、残念なお告げであった。
神は私にこういわれた。「すまん、すまん、お前は選ばれなかった。代わりに金をやろう。」と。
これは、本当の現世の父と祖父の気持ちを伝えていたのか、ある意味でこのお告げは実現している。
平成のバブル期、父は投機的不動産取引に失敗して多額の負債を背負ったが、私やおじ達の名義でそれなりの財産を残してくれたからである。 今、一介のサラリーマンでありながら、鎌倉の閑静な住宅地に一家9人で住める家を持てているのは、そのおかげである。
「選ばれなかった」というのも、その当時には、「(お前は跡取りとしての期待に応えてくれなかったので)跡取りにかけるべき本当の愛情を別の人間にかけている」という意味であったろうことも、後にそれとわかったのである。
しかし、父や祖父が、本当に私にとって、神でなかったか、といえばそうではないと思っている。
石原慎太郎が、「法華経を読む」にも書いているが、実は人は、神にも悪魔にもなれる存在なのではないかと。父と祖父が注いでくれた素朴で純粋な親の愛こそ、人間の性格の中でもっとも神に近いものに違いない。
親という有難い現世の神がありながら、どうして、もっと大きな神を求めるのかといえば、親といえども人間だからというしかない。自分よりも目上の人間に愛情をかけようと思ったら、もっと大きな存在を考えなければ、本当の愛情をかける事ができない場合があると、私は思う。
実を言うと寝ているときの出来事であるが、そのリアルさは決して夢ではなかった。
しかしこのお告げは、残念なお告げであった。
神は私にこういわれた。「すまん、すまん、お前は選ばれなかった。代わりに金をやろう。」と。
これは、本当の現世の父と祖父の気持ちを伝えていたのか、ある意味でこのお告げは実現している。
平成のバブル期、父は投機的不動産取引に失敗して多額の負債を背負ったが、私やおじ達の名義でそれなりの財産を残してくれたからである。 今、一介のサラリーマンでありながら、鎌倉の閑静な住宅地に一家9人で住める家を持てているのは、そのおかげである。
「選ばれなかった」というのも、その当時には、「(お前は跡取りとしての期待に応えてくれなかったので)跡取りにかけるべき本当の愛情を別の人間にかけている」という意味であったろうことも、後にそれとわかったのである。
しかし、父や祖父が、本当に私にとって、神でなかったか、といえばそうではないと思っている。
石原慎太郎が、「法華経を読む」にも書いているが、実は人は、神にも悪魔にもなれる存在なのではないかと。父と祖父が注いでくれた素朴で純粋な親の愛こそ、人間の性格の中でもっとも神に近いものに違いない。
親という有難い現世の神がありながら、どうして、もっと大きな神を求めるのかといえば、親といえども人間だからというしかない。自分よりも目上の人間に愛情をかけようと思ったら、もっと大きな存在を考えなければ、本当の愛情をかける事ができない場合があると、私は思う。
2009年2月9日月曜日
2009年2月7日土曜日
妄想でなかった真実
塩野七生の「ローマ人の物語」と"COLLASPE",Jered Diamondを読んで、ローマが滅びたのは、大浴場好きのローマ人が燃料用などに樹木を切りすぎたせいではないか?と妄想していた。
なんと既にそれが学問的に研究によって半ば実証されている事実であることを最近知った。堆積した花粉をしらべる事で、森林地帯が、破壊されていく変遷がわかるという。
この安田喜憲教授によれば、ローマだけでなく、ギリシャもそうだという。
ただし、安田教授の一神教対多神教について議論には賛成しかねる部分がある。一神教は砂漠で生まれ、多神教は森林で生まれたというのは、まあいいとして、多神教文明の方が環境保護や政治的平和共存の意味で優れている様に書かれているのは、因果関係が逆転した議論になっていると思う。
私が、一神教と多神教について一つ確実にいえると思っている事は、多神教は倫理的教義や戒律を持たない事であろう。その意味では多神教よりも一神教の方が進んでいるというか、後からできたに違いないということである。
ただ、この投稿は、前半の森林環境破壊が古代ギリシャ、ローマ文明を滅ぼしたという事が実証されつつある事に対する驚きと賞賛にあるので、一神教VS多神教議論は投稿を改めたい。
なんと既にそれが学問的に研究によって半ば実証されている事実であることを最近知った。堆積した花粉をしらべる事で、森林地帯が、破壊されていく変遷がわかるという。
この安田喜憲教授によれば、ローマだけでなく、ギリシャもそうだという。
ただし、安田教授の一神教対多神教について議論には賛成しかねる部分がある。一神教は砂漠で生まれ、多神教は森林で生まれたというのは、まあいいとして、多神教文明の方が環境保護や政治的平和共存の意味で優れている様に書かれているのは、因果関係が逆転した議論になっていると思う。
私が、一神教と多神教について一つ確実にいえると思っている事は、多神教は倫理的教義や戒律を持たない事であろう。その意味では多神教よりも一神教の方が進んでいるというか、後からできたに違いないということである。
ただ、この投稿は、前半の森林環境破壊が古代ギリシャ、ローマ文明を滅ぼしたという事が実証されつつある事に対する驚きと賞賛にあるので、一神教VS多神教議論は投稿を改めたい。
妄想の真実 その2
男女関係に関した事で、暗殺された元首の話から、因果関係があるに違いないと思っている事がひとつある。
伊藤博文とジョンFケネディである。
そう、二人とも女性関係が激しかったという事が有名である。
伊藤博文の方は、具体的な話がわからないが、ケネディの方は、マリリンモンローの自殺後1週間で暗殺されている。
「妄想の真実」は2つあって、
1つは、
暗殺されたのは、無くなった女性の怨恨が原因ではなったか?
もう1つは、
この1週間というのは、亡くなった人が、この世に影響を与えうる特別な期間ではないかと言うことである。
後の方は、また別に書くとして、
いかに有能なリーダーといえども、長生きをしたければ、「英雄豪傑色を好む」は仕方ないとして、女性を弄んだり、うらまれるようなことはすべきない事だと思うのである。(たぶん女性だけではないのだろうが。)
伊藤博文とジョンFケネディである。
そう、二人とも女性関係が激しかったという事が有名である。
伊藤博文の方は、具体的な話がわからないが、ケネディの方は、マリリンモンローの自殺後1週間で暗殺されている。
「妄想の真実」は2つあって、
1つは、
暗殺されたのは、無くなった女性の怨恨が原因ではなったか?
もう1つは、
この1週間というのは、亡くなった人が、この世に影響を与えうる特別な期間ではないかと言うことである。
後の方は、また別に書くとして、
いかに有能なリーダーといえども、長生きをしたければ、「英雄豪傑色を好む」は仕方ないとして、女性を弄んだり、うらまれるようなことはすべきない事だと思うのである。(たぶん女性だけではないのだろうが。)
妄想の真実
神以外に、科学的に証明できないであろう事で、自分の不思議な体験などから、そうに違いないと信じていることが、いくつかある。
幽霊などは、信じないほうだが、人間の霊やテレパシーというのは確かにあると思う。証明できないだろうという意味で「妄想の真実」としていくつか書いてみたい。
猫が霊を運ぶというのはよく聴く話だが、それに似た事が、もう20年以上も前の事だが私にもあった。
親の反対で、付き合っていた20をちょっと過ぎたばかりの、少女のような女性を無慈悲にも振って、親元の田舎に返してしまった。 エゴの極みであったが、その直後から毎夜毎夜、家の庭にどこかの猫が来てミューミューと悲しげに鳴くのである。 半年以上たって猫が鳴かなくなった頃に、彼女のことを忘れられず電話してみると、結婚するという。
しかし、彼女が言うには家に帰ったころは、親に「お前は馬鹿だ」といわれ、何ヶ月も毎晩泣いていたという。私には口にすべき言葉もなかった。
幽霊などは、信じないほうだが、人間の霊やテレパシーというのは確かにあると思う。証明できないだろうという意味で「妄想の真実」としていくつか書いてみたい。
猫が霊を運ぶというのはよく聴く話だが、それに似た事が、もう20年以上も前の事だが私にもあった。
親の反対で、付き合っていた20をちょっと過ぎたばかりの、少女のような女性を無慈悲にも振って、親元の田舎に返してしまった。 エゴの極みであったが、その直後から毎夜毎夜、家の庭にどこかの猫が来てミューミューと悲しげに鳴くのである。 半年以上たって猫が鳴かなくなった頃に、彼女のことを忘れられず電話してみると、結婚するという。
しかし、彼女が言うには家に帰ったころは、親に「お前は馬鹿だ」といわれ、何ヶ月も毎晩泣いていたという。私には口にすべき言葉もなかった。
私にとっての神-5
小学校5,6年生のときだったと思いますが図書館に、聖書物語という本があり読みました。
旧約聖書と新約聖書の2つがあり、最初は旧約聖書の方を読み、おもしろかったので、新約の方も読み始めましたが、まったく意味がわかりません。
旧約の方は、おとぎ話のように、どんな登場人物が何をしてどうなったかということがとてもわかりやすく、その意味しているところはわからなくても、行為それ自体がわかりやすく子供なりに楽しめたのですが、新約の方はいけません。
イエスキリストが主役なのは、当然なのですが、なぜそのようなことをするのか、何を考えているのか、何が起こっているのか?さっぱりわかりません。 今になって考えれば、そのころの私には、わかる筈もその必要なかったということだとなっとくはしているのですが。
旧約聖書と新約聖書の2つがあり、最初は旧約聖書の方を読み、おもしろかったので、新約の方も読み始めましたが、まったく意味がわかりません。
旧約の方は、おとぎ話のように、どんな登場人物が何をしてどうなったかということがとてもわかりやすく、その意味しているところはわからなくても、行為それ自体がわかりやすく子供なりに楽しめたのですが、新約の方はいけません。
イエスキリストが主役なのは、当然なのですが、なぜそのようなことをするのか、何を考えているのか、何が起こっているのか?さっぱりわかりません。 今になって考えれば、そのころの私には、わかる筈もその必要なかったということだとなっとくはしているのですが。
最近聴いている音楽
Eva Cassidyを最近知りました。
You Tube で何でもありなのは、愕くばかりですが、仕事で知的財産関係の仕事をしているので、これで大丈夫なのだろうか?と少し心配になります。
しかし、早世した本人は 、自分の残したものの金銭的価値よりも、多くの人の心の糧になる事の方が、歓んでいるであろうと勝手な理屈をつけて、ありがたく聴いております。
You Tube で何でもありなのは、愕くばかりですが、仕事で知的財産関係の仕事をしているので、これで大丈夫なのだろうか?と少し心配になります。
しかし、早世した本人は 、自分の残したものの金銭的価値よりも、多くの人の心の糧になる事の方が、歓んでいるであろうと勝手な理屈をつけて、ありがたく聴いております。
私にとっての神-4(神との出会い1)
結婚後、子供ができ、2-3年もした頃だったろうか?
日々迷妄が起こるたびに心の中に神に祈り、神に道を問い続けていた。ある日の明け方、私は神に出会った。まばゆいばかりの光そのものであった。顔ははっきりとはわからないのだが、私の現実の祖父と父がひとつになったお方であるのが感じられた。 意外であった。畏怖よりも懐かしさとまばゆさばかりが感じられた。
傍からみれば、独りよがりかもしれない自分教の神を信じているに過ぎないのに神に会うことのできた思いにただ言葉もなく感激に浸っていたのだと思うが、そのとき実にはっきりとした言葉による神からのお告げがあったのだ。
日々迷妄が起こるたびに心の中に神に祈り、神に道を問い続けていた。ある日の明け方、私は神に出会った。まばゆいばかりの光そのものであった。顔ははっきりとはわからないのだが、私の現実の祖父と父がひとつになったお方であるのが感じられた。 意外であった。畏怖よりも懐かしさとまばゆさばかりが感じられた。
傍からみれば、独りよがりかもしれない自分教の神を信じているに過ぎないのに神に会うことのできた思いにただ言葉もなく感激に浸っていたのだと思うが、そのとき実にはっきりとした言葉による神からのお告げがあったのだ。
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