2009年3月7日土曜日

私にとっての神-6

一神教とは何かという事について寄り道をしてしまった。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教のエホバ(ヤハウェイ、アラー)の神は、ユダヤ人の奴隷体験を基にした人格神である事は、この三つの文明圏に属さない人間にとっては、すこし考えてみれば、専門の勉強・研究など不要なほど自明な事であろう。

では、イエス・キリストの解いた愛と救いと慈悲の神とはなにか?
一言でいえば、母親であったマリアの愛を彼は、神の愛に昇華させた。私のこの考えは、遠藤周作によっているが、たぶん英語で検索しても同様な考えは、常識だろうと思われるので、あえて検索しない。私が欲しているのは、考えの新奇性の功名を争う学問としての神の定義ではない。自明と思われる事に時間を割かずに先に進みたいのだ。

イエス・キリストがどうして「愛」の神を説きえたかといえば、彼自身が自覚していたかどうかは定かではないが、マリアとヨゼフの深い愛を受けていたからに違いないと断定する。
残念ながら創造神でない人間は、自分の体験したものしか、思想・哲学といわれるような抽象的な領域においてすら、力のある意味を持たせられないようだ。 抽象化というのは、単なる一般化であって、本質的にはまったく創造性のない知的行為なのだろう。 あるいは、言葉というものがもっている機械的な性質にすぎないのかもしれない。

キリストの宗教改革によって、ともかくも、神は奴隷主から、人の親になったというべきだろう。
しかし、先祖崇拝なら、アジアなど、どこにでもある。 いったん他人であった神にしかない強さとは、どこから来るのだろう。 私は、「言葉」だと思っている。

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