2016年11月6日日曜日
われ思う故に我在りーデカルトの予言
「我思う故に我あり」とは、有名なデカルトの言葉であるが、今日の人工知能、人工意識に関する工学的仮説として読むならば、我々人間の知能や意識(すなわち生物学的意識)も「自己を認識する機械的作用」であり、今後実現されるであろう「十分な情報量を有する人工的な自己認識」と、同値(数学的な意味でも、物理的機能の実体としても)である。
すなわち、「われ思う故に我在り」とは「十分な技術的発達によって、人間と同様な意識、および知能が実現可能である」と言っているのに等しいのだ。 哲学者、工学者、科学者は、この観点からの、この言葉の意味について認識し、議論しているのであろうか?
別の言い方をすれば、人間の精神や意識は、自己を認識する機械に過ぎないと言っているのだ。 今のところ、我々は、これを否定する科学的根拠は何も持っていないように思える。
そして、情報科学、工学の分野では、すでに様々な形で、自己を認識する機械やシステムが作られ、複雑化の一途をたどっており、物理的な処理能力の向上から考えて、いつ人間意識と等しい、自意識、自我が現れてもおかしくないが、この観点にたった、基本的研究がなされているとは聞かないので、私のような、定年後の三流の技術者くずれであっても、身の程も顧みず挑戦してみたい誘惑にかられるのである。
そもそも、自己を認識しているというのは、どういうことかと基本的な思索を行うと、
1.世界認識といえる外界からの情報入手、写像、蓄積手段を有している。
2.外界に変化をもたらす出力手段を有している。
3.上記の機能をもたらす物理的実体、および機能を自己して認識している。
3がデカルトの記述に相当する部分だが、1,2は工学的自我を考える上で付け加えたものだ。
自我を、世界と区別して考えるために、1,2が必要だが、3だけであれば、全世界が自我であってもかまわないという、危ない場合も考える必要がある。
デカルトの記述では、「我」、「在り(存在する」、「思う」とはなにかという定義はされておらず、その三者の間の関係のみが記述されており、単に「我」の定義ではなく、「(我に関する)存在」の定義、「思う」の定義ともなりうる。
それぞれの語句に、構成的な定義を与えたうえで、この記述を見直す事で、工学的に意味のある記述となることが予想される。
1.「我」とは、認識主体の世界認識における自己範囲(世界認識⇔入力された情報に対する要素分解と要素間の関係の
の集合の定型化されたもの)
2.「在り」とは、認識主体の認識できる状態とできない状態の2状態が存在する場合のうち、認識できる状態。
3.「思う」とは、認識主体の世界認識における自己範囲の動作によって、肯定的に認識する事。
4.「肯定的に認識」するとは、
上記1~3を用いて、デカルトの予言をいいかえると、
5.認識主体が「認識主体の世界認識における自己範囲」が「認識主体の認識の自身の動作によって」
認識主体の存在を認識できる状態であることを、肯定的に認識できる。
この場合、通常以下を仮定している。が、現時点では、証明されているわけでも、適切と判断する十分な
材料があるわけでもない。
〇認識という動作が、認識主体の何らかの内的主体性に基づいている事
〇認識主体は、認識以外の何らかの外的影響力を持つ動作が可能である事
2017/11/29
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