2009年2月20日金曜日

一神教 試練を生き延びた開放奴隷の心象

安田喜憲教授の一神論について「(環境破壊された砂漠の荒野での)妄想」だとの論評を(http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090203/184786/?P=1)を読んで、何かちょっと違うと感じているとこのブログに少し前に書いた。

自分自身が子供の頃から聖書物語などを読んでいたので、一神教についての弁護的な感情を抱いていたからだが、一神教と多神教の違いはなんだろうかと、この数週間純粋に考え続けていた。 

ある事に気がついた。 そうだユダヤ人は、エジプトでもバビロンでも奴隷だったのだ。そして荒野に逃れた。 奴隷だった人間が、荒野に逃れたとき必要になるのは何か?

それは、新しい主人(Master)すなわち神に他ならない。 一神教とはすなわち「奴隷の主人に対する心象の投影」に違いないと、今日、会社からの帰り道を歩き出した時に自然に気がついた。 だからこそ彼らの神は、人間のように嫉妬深いし、戒律にうるさいのだ。

すべてがストンと納得のいく答えが得られた。 そしてローマでどうしてキリスト教はあんなにも急速に広がったのか? それは、ローマが奴隷の上に成り立ち、時代が下るに従って、兵士その他を経た解放奴隷が増えていったからに違いない。 すべてがうまく説明がついてしまう。なんと言う発見だ。どうしてこんな簡単なことに今まで気がつかなったのか?

真理を一つ発見し得たに違いないという自己満足に酔いながら、これも既にそのような説が唱えられているかもしれないと、検索をしてみたら、すぐに出てきた。

精神分析学者の岸田秀が既に書いているという。(書評なので中身を読んでいないが)http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%80%E7%A5%9E%E6%95%99vs%E5%A4%9A%E7%A5%9E%E6%95%99-%E5%B2%B8%E7%94%B0-%E7%A7%80/dp/4403210791

毎度の事ながら、少しがっかりだ。英語でも検索中で、まだ発見できていないが、きっと西洋人の中にも気がついていた人にいるに違いない。

人の同説を探し回るより、だからどうなのかという事をもっと掘り下げて考えてみようと思う。 どうして一神教は、科学を生み出すことができたのか? どうして、その後の社会の発展は、もっぱら一神教によっているのか?

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