私にとっての神の土台は、実はキリスト教的な神と、少年期に父から受けた道徳的教育から得た自分なりの結論の2つである。
キリスト教的神の方は、カール・ヒルティと遠藤周作が私のキリスト教に対する考え方の元になっている。
まずカール・ヒルティによれば、神の存在は、人間には証明できない(証明できたとすれば、人間を超越しているという神の属性と矛盾する)。
また、遠藤周作によれば、キリストが伝えた神の愛は、戒律や罪に対する罰といった父性的なものでなく、原罪(あるいは自らの罪)に苦しめられる人間を無条件に救う母性的な愛であると。
私が少年期に受けた道徳教育というのは、廣池千九郎博士が創始されたモラロジーである。 一言でいえば、道徳とは、基本的に他者を愛し、利己主義を捨て、他者に奉仕する事に徹する事で幸福にいたるという事ある。
しかし、その小冊子、ニューモラルのある号に鋭くも指摘されていたように、自己の幸せのために他者に奉仕するのであれば、これは偽善である。 実は、単純な道徳・倫理というのは、子供にもわかるような大きな矛盾を含んでいるのである。 だからこそ少し純粋な人間は、皆、大人になるために、思春期の反抗と不安を乗り越えなければいけないのだと思う。
優等生であった自分は、純粋さにかけていたのか、両親の愛があまりにも深かったゆえか、思春期をこれらの矛盾に立ち向う事もなく過ごしはしたが、子供のころ、引っかかっていたこの点を心のどこかで、考え続けていたのであろう、未熟ながらも人生の経験を経て、(30歳前後だったと思うが)いつしか簡単な答えが自然に出ていた。
自他共に幸せになりうる行動、それが善(すなわち本当の道徳)であると。
しかし、現実世界で本当にそのような行動が常に取れるだろうか?本当にそのような行動を常に見つけられるだろうか?
そのとき、自然に、神が必要であると「悟った」のである。 ここから先は、信じるしかないのだと。
実は、この事は、気がついてみれば、多くの人がすでに言われている。
「自他一如」という古くからある言葉が、まさにそれであるし、私が青年期にかじった柔道の創始者、加納治五郎師も「自他共栄」といわれている。近くは、妻が傾倒している上廣榮治師も「我もひともの仕合せ」と表現されている。
しかし、理想とすべき生き方の方向が見つかったのなら、その上に「神」などというものは、必要ないのではないか? 信じると言っても、自分自身を信じるだけではないのか?と?
あるいは、神と呼ぼうが、(最高)善と呼ぼうが、単に呼び方が違うだけではないか?と。
実は、これをもう少し掘り下げて考えようというのが、このブログの目的でもある。 答えがあるのか、ないのか、あるいは無意味な「神学論争的」問いなのか?
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